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土井 康生(Doi Kouki)

観光事業/海士町
1986年10月26日生まれ。広島県広島市出身。高校・大学は路上漫才をしながらお笑い芸人を目指すも志し半ばで夢を諦める。大学を卒業後、農家用機械のサービスマン→地方公務員→もう一度、お笑い芸人を目指す→地域おこし協力隊→西ノ島町観光協会→薩摩川内市観光協会。その後、2023年8月にFoundingBaseに入社、島根県海士町に着任し観光事業に従事。

幼少期~小学生時代

土井家の末っ子(3人兄弟)として広島市で誕生。

小学生の時はどっちかと言えば…どっちかと言わなくても陰キャでした。
家で毎日テレビゲームをしていました。
そんな小学6年生の頃、小学校最後の年だからクラス全員から誕生日カードにその人の良いところを書いてプレゼントをしよう、との企画が始まりました。
私の番が回ってきて、ワクワクしながら開けると
「ゲームがうまい」「ないけど、家に行ったらゲームをやらしてくれる」「ない」
こんなのばかりだった。
それを見た当時の担任が泣きながら、みんなに怒ってくれました。
…けど、それが一番つらかったです(笑)

中学時代

兄と姉はめちゃくちゃモテていて、当時、兄はファンクラブがあって、姉はクラスの3分の2の男子に告白されるという伝説を持っていました。
そんな中学1年生の頃、親戚の集まりでおばちゃんに肩をつかまれて
「こうくん、男は顔じゃないから頑張るんだよ。」
と励まされた。
…自分を知った、そんな日でした。

自分は何が誇れるだろう、何だったら兄姉に勝てるだろうと考えていた中学3年生の時に未だに世界一面白いと思う友人に出会えたのです。
自分が変わるきっかけでした。
ルックスで勝負できないなら、と目指したのがお笑い芸人でした。
もちろんモテたかったのもありますが(笑)

高校時代~大学時代

中3で出会った友人を芸人の道に誘うも断られ続け、別の相方と文化祭や体育祭だけでなく路上漫才を披露していました。
大学3年時には、路上漫才で固定のファンもついており、バレンタインでは段ボール1箱分をもらったりと完全に天狗になっていました。
人生で唯一モテてた時でしたね…(遠い目)

そんな中、大学4年生の時に初めてM-1のオーディションを受けることになりました。
しかし、オーディション会場にどれだけ待っても来ない相方。
締め切られる受付。
夕方、相方からメールが鳴る。
「気合を入れるために大人のお店に行って延長したら、オーディションに間に合わなかった。来年頑張ろう。」
…即着信拒否。
短い芸人志望の日が終わりました。。。

社会人 一般企業→地方公務員

お笑い芸人の道を諦め、農家用乾燥機や精米機を販売する会社に就職。
営業として内定をもらうも内定後にリーマンショックがあり、組立作業のサービスマンとして宮城に配属。
若かったこともあり、向いていないと判断し、4か月で退職。

退職後に公務員養成学校に入学。次年度には合格し市役所に入庁。
3年目のある日、中3からずっとお笑いの道に誘っていた友人から
「仕事辞めた。ずっと誘ってもらっていた芸人、目指してみない?(笑)」
とメールがありました。
即答でオッケーをし、すぐに上司に退職の意向を伝えました。

夢追い時代 ~僕たちはもう戻れない、ノーリターンズ~

憧れていた芸人さん(アルファルファ)がコント師だったので当初はコントをしていましたが、全くウケず、仕方なく漫才をしていました。
※ちなみに担当はツッコミです。
そんなある日、新大阪駅で路上漫才をしていた時、今までにないぐらいヤジを浴びせられ続け、相方を置いて、泣きながら走って逃げたのは今では良い思い出です。

他の芸人さんを観るとめちゃくちゃ面白いのに売れていない、バイトをしないと生きていけない方ばかりでした。
自分たちも焦りを感じ、周りのアドバイスもあり、人力舎の養成所のオーディションを受け、無事に受かりました。
しかし、相方は養成所を受けておらず、就職活動をしており
「内定をもらった。自分から誘ったけど、解散したい」
と告げられ、自分が芸人に向いてないと思っていたこともあり、引き留めず解散しました。

ニート時代

解散をしてからは、したいことが思いつかず、家でじっとするのも嫌だったのでボランティア活動をしたり、自治会の仕事を手伝っていました。
そこで自治会長さんに出会ったことが私の人生の転機でした。
とても活発な方で、
・草刈りが出来ないお年寄りの家で草刈り
・放課後に公民館にも行けない子どもたちに習字や手紙の書き方を教える
・一人暮らしの若者を呼んで、BBQを開催する。
※会長は裏方に徹するなどを行っており、他にも新しいことに挑戦し続ける方でした。
私が今後について相談した際に
「芸人をやっていたなら、誰かを笑顔にするのが好きなんでしょ。まずは自分が関わる人たちから笑顔にすることを考えたらどうかな。」
と言われたときに自分の中で衝撃が走り、漠然とですが、やりたいことはこれだと感じました。

隠岐で地域おこし協力隊~観光協会

自分の中で地域おこし協力隊が地域の人と行政を繋ぐ、人を笑顔にする仕事だと思い、応募をしました。
しかし、まだ自分に自信がなく地域おこし協力隊を募集している自治体で最も人口の少ないという理由のみで当時の人口が590名の島根県隠岐郡知夫村に決めました。
知夫村ではマルチワーカーとして
・教育 はぐくみ寮(小5~中3までの子どもたちがハウスマターと呼ばれる寮母と島生活を経験する)立上げを中心とした知夫村教育魅力化メンバー
・畜産 知夫村和牛改良組合の事務局
・環境 文化財の保護・特定外来植物の駆除活動
・観光 観光協会の仕事をしながら、シーカヤックのインストラクター
を行っており、任期満了の3年を終え、一番好きなことは観光だと思い、隣の島にある西ノ島町観光協会に就職。
※当時は知夫村に観光関連で正職員の募集がなかった。

西ノ島町観光協会では、教育旅行の受入、イベント・広報、ガイドクラブ運営、観光商品開発と今まで行っていないことばかりでとても勉強になりました。
観光の仕事がどんどん好きになっていく自分がいました。
芸人志望の時には出られなかったテレビにも出演させてもらい、芸人さんとも共演できました。(緊張しすぎて、噛み倒してほぼカットでしたが…)
隠岐をどんどん好きになっていく自分にも気づいていました。
ですが、隠岐以外の場所で観光を学ぶことで今後の隠岐の為になると考え、転職。

株式会社薩摩川内市観光物産協会から海士町へ

ここでは窓口での観光案内をはじめ、団体旅行や個人旅行等の手配業務、物産事業として売店の運営など、幅広い業務を行なっていました。

担当になった物産事業に関わるのは初めてのことであったが、商品の配置入れ替え、新商品の入荷、新規事業者との取引、POP作成など、売上向上のために積極的に行動しました。
これまで待ちの姿勢だったため、自らお客様に声をかけ、ニーズを引き出しクロスセルで顧客単価と営業効率の向上を実現し、特に2023年5月の売上目標の132%を超える売上をあげることができました。
自分の中で経験してこなかった分野で数字を残せたことが大きな自信となっていたところで、偶然にもFoundingBaseにお声掛けいただきました。
そして、隠岐諸島の海士町に戻ってくることが出来ました。

これから

まず自分を育ててくれた隠岐に、隠岐の人たちに感謝の気持ちで恩返しがしたいです。
そして、関わる人たちを少しでも大きくたくさんの笑顔を生んでいけるよう頑張っていきたいです。
毎日ワクワクしています!
今まで培ってきた経験はなかなか他の人にはないものだと自負しています。
この経験とこれから得ていく力でコツコツ頑張っていきますので、皆様ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします!!