石井 弘輝 / 教育事業部長
教育事業部
1991年生まれ。福島県双葉郡富岡町出身。
東京大学文学部社会学専修課程を卒業後、新卒で株式会社47PLANNINGに入社。日本全国の地域活性化をミッションとする会社の中で、飲食店舗・小売店舗・自治体観光PRブース・商業施設・スポーツチームクラブハウス等の新規事業の立ち上げに携わる。その後、アクセンチュア株式会社に転職し、中央官庁、地方自治体、中小企業経営者などのクライアントに対し、日本の食品の輸出拡大や調査・プロモーション案件に従事。2022年10月にFoundingBaseに入社し、東京チームとして関係人口創出事業に携わり、現在は教育事業Managerを経て、2024年4月より教育事業部長に就任。
小さな世界で、探検する喜びを知る。まだ見ぬ世界への好奇心。
私は福島県の海沿いの富岡町という町で、3兄弟の3男として生まれ育ちました。人口は約1万人強、家の周りは田んぼで囲まれ、最寄りのコンビニまで歩いて30分、学校までの約2kmの道のりには信号が一つもない、のどかな田舎町でした。
幼い頃を思い返すと、ただひたすら理由もなく走り回っていました。自然の風が肌に触れ、自分の周囲のものが後方へと流れ、新たな景色の中へと自分が飛び込んでいく、探検にも近いワクワク、爽快さが気持ち良かったのだろうと思います。稲刈りの終えた田んぼの中を走り回り、雑木林の倒れた木を飛び越し、学校の廊下を全速力で走る、そんな子どもでした。
もう一つ、幼少期からハマっていたコトとしては、世界の歴史や文化に関する本やテレビ、映画などです。海と田んぼに囲まれた自分のいる場所とは異なる世界にワクワクし、時間も忘れるほどにのめり込みました。愛読書は世界遺産の図鑑(ビックベンとアンコールワットとコロッセウムがお気に入り)、将来の夢はテレビ番組「世界ふしぎ発見」のミステリーハンター、結婚する相手は海外の人!と心に決めていました。
今振り返ると、未体験のものごと、自身とは異なる価値観や文化に対する興味や憧れは、この時から持ち続けていたのだなと思います。
他人の目線とアイデンティティの葛藤。
進学した公立中学校では成績も上位、二人の兄が過去に同校の生徒会長をやっていたこともあり、自身も生徒会長になるものだという意識のもと、立候補し当選。生徒会活動に取り組みました。
しかし、当時を振り返ると、真面目で成績優秀な「優等生」というキャラクターを自分自身に貼り付け、そこから外れる言動や行動などをしてはいけないと、自分自身で抑圧し、苦しんでいたように思います。
その裏側には、人の期待を裏切ってはいけない、裏切って嫌われたくないという不安や恐れがありましたが、大学、社会人と時が経つにつれ、沢山の人と出会い、各々の人の考え方の多様性に触れる中で、「一つの行動が全員の期待を満たすことはあり得ない」「全ての人に好かれることはあり得ない(その必要はない)」と徐々に変化していきます。
東日本大震災。誰もが苦しみ・悲しみを抱えて生きているかもしれない。
幼少期からの「外界への憧れ」のもと、大学進学に合わせて「大都会東京」へ上京。自分の知らない場所・体験を求めて暇さえあれば東京中を歩き回っていた大学1年生の私に、価値観を動かす東日本大震災が起きます。
私の実家のあった福島県富岡町は津波の被害を受け、さらに、事故のあった福島第一原子力発電所からも10km弱の位置にあったため、私の家族はその後1年間ほど福島県内各地、東京へ避難することになりました。
当時私は大学1年生が終わった春休み。東京の一人暮らしの自宅で大きな揺れに襲われ、家族に連絡を取ろうとするも電話は全く繋がらず、テレビを見ると、「大津波警報」の文字、そして私の実家のある場所が津波で流される映像を見ながらただ茫然としていました。
幸いにも全員家族は避難し無事だったものの、その後原発の状況悪化から何とか逃げるように家族は避難を転々と繰り返し、一方の私はただ東京のテレビの前で悪化していく原発の状況と日本政府による懸命な復旧に向けた作業を見ながら、「家族がどうか無事で避難できますように」と祈ることしかできませんでした。
事故から約3週間後、家族はやっと東京まで避難をすることができ、会えた瞬間に涙を流して抱き合ったことを覚えています。
震災が起こるまで、何の不自由もない幸せな生活を送って来られていた私は、正直に言って、自身にこのような不幸なことが降りかかるなんて想像したことがありませんでした。震災を経て、生きている限り、いつ何が起こってもおかしくないことを強く感じました。
また、私は他の人から震災について「大丈夫だった?」と心配をかけられても、実家を失ったことや、原発事故で家族全員避難をしていることなどを話すことが辛く、当初は正直に伝えることができませんでした。
この経験から、目の前にいる人がたとえ気丈に振る舞い、言葉では「大丈夫」と言っていても、その裏側では何かしらの不安や恐れ、辛いことを抱えながら生きているかもしれないと想像すること、当事者ではないためそれを完全に理解することはできないが、理解しようとすること、寄り添う姿勢を自分は持ちたいと考えるようになりました。
自分にとっての仕事の喜びとは。
震災を通して、「自分のやるべきこと=使命」を考えるようになった私は、就職活動の軸についても、小さな頃から継続して持っていた「異なる価値観や文化に対する興味や憧れ」に行き着きます。
日本全国の多様な文化・価値観に出会い、驚きながら、その地域の人たちと一緒に何か新たな物事を作り出すことができたら人生面白そうだなと感じ、日本全国を「地域 × 食 × イベント」で活性するビジョンを持つ47PLANNINGに入社、主に新規プロジェクトの立ち上げを担当しました。
入社当時は10名弱のベンチャー企業であり、飲食店舗・小売店舗・自治体観光PRブース・サッカーチームの施設運営など多岐に渡って、事業開始時の企画から、立ち上げ後の運営まで携わらせていただきました。
地元福島県のいわき市では、「いわきFC」というサッカーチームを通じて、まちづくりを行うプロジェクトに携わりました。
以前は何も存在しなかった場所に、数年後「いわきFC」のユニフォームを着た小さい子供から年配の方まで数千人が集まり、笑顔で応援している光景を見た瞬間、「自らの事業が地域の人たちの生活に変化をもたらし、その地域の人たちの笑顔が見られること」に満足感・嬉しさを感じる自分がいました。「仕事の喜び」ってこういうものなのかなとぼんやりと感じたことを覚えています。
自己受容
その後、日本国内だけでなく、海外という異なる世界と関わる機会を求め、コンサルティング会社のアクセンチュアに転職、日本食品の輸出拡大や海外マーケティング調査(WEB、文献、事業者ヒアリング)などを担当しました。もともとチャレンジしたかった海外と日本の地域を繋げる事業(食品の海外輸出)などに携わることができましたが、自分にとっての最も大きな変化は、「自分の弱み」を認め、他人に助けを求めることができるようになったことでした。
私のこれまでの経験から構築された価値観には、「完璧主義(できなければいけない)」「他者思考(他者からの評価を重視する)」が根深くあり、自身のできないことや弱さを認めることができず、そして他者にも家族にさえも素直にさらけ出せませんでした。
しかし、これ以上ひとりで抱え込んだら折れてしまうと感じ、自分がつらく、苦しい状況であることを、人生で初めて家族に話しました。すると、「無理する必要はないよ」、「頼ってくれて嬉しい。ありがとう」という言葉をもらい、「できない自分でもいいんだ」と自分の中でピンと張っていた糸が緩んでいくような感覚がありました。
自分の弱い自分を見せること=自分自身をかたちづくる様々な面を分かち合うことにより、互いの関係性、信頼感が深くなることを実感しました。
自分の人生のテーマとしての「共創」
何のために仕事をするのか、自分が何に喜びを感じるのか、改めて自身の価値観を考え直すことになります。
「日本全国各地のひと、文化、価値観の違いに自分自身が向き合い、理解し、驚き、楽しみながら、その地域のひとたちが幸せに暮らせるよう、一緒にコトを作り出していくこと。」
「そのプロセスの中で信頼関係を築き、その温かな関係性をもとに新たなコトを共創し、その中で関係性を波及させていくこと。」
自らの仕事のあり方をこのように考える中で、FoundingBaseと出会います。その地域に入り込み、地域のひととともに継続的に地域経済をつくる「地方共創」のスタンスに共感し、入社を決意しました。
FoundingBaseの一員として「地方共創」のプロセスに自らの身を置き、地域・そして関わる様々な人とともに、人生を一歩ずつ進めて行きたいと思います。