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濵村 和生(Hamamura Kazuki)

1996年7月生まれ。山口県山口市出身。北九州市立大学法学部法律学科へ入学し、刑法学/日本法制史を専攻。在学中はインターンシップを運営するNPO法人にて営業や広報活動に従事。卒業後は京都市役所へ入庁。在職中、自分でNPO法人を設立してグラフィックデザインやワークショップを通してまちづくりに取り組む。
2024年1月に株式会社FoundingBaseにジョイン。現在は福島県国見町の公営塾「ハル」にて教育事業に携わる。

とりあえず何かやってみる!

  社会の高校教師をしている父親と専業主婦の母親、5歳下の妹の4人家族の家に生まれました。勉強はするけど、そんなに点数が高くない、容量の悪い真面目な子供だったなと思っています。特段何がやりたいわけでもなく、友達と遊んだり、ゲームをしたりすることが好きなどこにでもいる普通の子供時代だったと記憶しています。小学校4年生の時の将来の夢に、父親の職業である「こうむいん」と書いていたのを覚えています。
 一方で、大きな好奇心はなかったですが、「とりあえず何かやってみる」というスタンスでした。学級委員をやったり、生徒会選挙に出たり(落選)、中学校では野球をやったり、高校では登山部のキャプテンをやってみたり。
 今思えば、何かに打ち込むことで僕は、漠然とした日常の憂鬱さを忘れようとしていたのかもしれません。

24時間研究室

 父親の影響を受けて歴史を勉強したくて、地元の国立大学の人文学部(親の母校)を目指しましたが数学でありえない点数を取り、北九州市立大学の法律学科を受験して入学しました。大学に入った後は、文系大学生に珍しく、ちゃんと学問に励み、 24時間開いている研究室で、日付が変わるまで法学書を読みあさってました。結果、学科で6番目になって表彰状をもらったりしました。
 とはいえ、あれだけ勉強して6位だったので今振り返っても相変わらずです、容量の悪いやつだと思います笑。

書を捨てよ町へ出よ。

 大学に入ったのに全く遊ばず、ひたすら法学書を読み漁る毎日だった大学1年生の濵村に転機が訪れました。とある国会議員と社会課題についてゆるく話す座談会に参加することになりました。結果、コテンパンにされました。
「大学の勉強ができたって、僕は社会のことをよく知らないんだな。」と思いました。
そこで、社会のことを知ろうと思い、2ヶ月間の議員インターンシップに参加しました。
 夜遅くまでコンペに向けて政策を考え、街の事業者をまわったり、政治活動のお手伝いをしたりしました。この時、インターン生をやりながら、運営母体のスタッフをやっていたため業務量が爆発しました。
 僕より優秀なインターン仲間達から深夜に「愛のムチ」を受け、担当スタッフに泣きながら電話をしました笑。

スーツを着てキャンパスを走り回る。

 インターンシップ終了後はインターンの運営母体で、メディア掲載を勝ち取るため記者を誘致したり、目標数字を達成するために営業活動をしたり、イベントの企画設計をしたりしていました。スーツを着てキャンパスを走り回り、研究室ではパソコンを叩き、ずーっと「仕事」をして家に帰るのは深夜2時くらい。
 でも、この時期はとても楽しかったです。自分が納得する目的のために、何かを作り上げていくことが楽しかったんだと思います。全国組織だったので社内表彰もされて、自分の努力が身を結ぶ感覚を持ちました。公務員試験の勉強のために、一度辞めますが、京都市役所に内定を貰った後の大学4年生の後期に、当時の代表に呼び戻され、他の友達が卒業旅行に行く中、入庁の前月の3月30日まで福岡で「仕事」を続けました。
 
 大学時代を振り返ると、ほとんど遊ばず、「仕事」をしていたと思います。「濵村はモチベーションの波がないね」と言われていたのを覚えています。辛いことがあっても、「自分のやりたいこと」、「納得して選んだこと」であれば、人間関係に左右されず続けられていました。それが自分の将来に繋がっていると思えたからです。

理想と共に京都市役所へ

インターンの運営母体の活動の中で、地域の課題を解決したいという思いと、歴史的なものに付加価値をつけて販売促進したいという思いがあり、一番伝統工芸品の支援政策に力を入れた京都市役所を希望しました。
また、経済が縮小する社会において行政の役割は資本の再分配だけでなく、一定の収益性を念頭に置きながら経済原理では解決されない課題に挑戦することだと思っていました。
「行政の役割は、市民の生命と財産を守ること」そんな理想を掲げていました。

「やりたいこと」ではないけれど。

1つ目の職場は生活保護担当。とにかく辛かったです。
仕事内容はもちろん、僕自身の不甲斐なさもあって、担当のOJTにはほぼ毎日怒られてました。(そのOJTは今でも尊敬しています。)
それでも、その時の僕は職場へ行くことは苦ではありませんでした。
理由は、一緒に働いていた同期4人がいたからです。

五山の送り火に行ったり、星を見るためにロッジに泊まったり、温泉で仕事の愚痴で盛り上がったり。
大学時代に「遊んだ」ことがない、自分としては新鮮な経験でした。
自分の「やりたいこと」でもなかったし、辛くてしんどかった。
それでも、僕は周りの人に支えられて、本当に幸せな時間を過ごしていました。

同期との別れと現実

3年目になった時に、僕以外の同期4人が全員異動しました。この時から急激に仕事が辛くなりました。その辛さをぼかすように、まちづくりのNPO法人を設立したり、部署を跨いだまちづくりの研修に参加したりしました。
そして、満身創痍になりながらも、どうにか残り1年間を耐えて、ようやくの人事異動。
しかし、その次の仕事も僕にとっては辛く厳しいものでした。
勤務体系上、他の同期と話すことも、プライベートのまちづくりの活動をすることも難しくなり、僕は疲弊していきました。
夜中に台車を押しながら思いました。
「我慢して次の人事異動に。。。あれ、いつまで僕は我慢すればいいんだろう?」
そう思った瞬間、僕の心の糸は切れました。

僕が採用されたのは、どこに異動するか分からない一般事務職。専門職ではありません。
いわゆるゼネラリスト採用。
1万8,000人にも職員がいる中、希望の部署にいける可能性はわずかで、
しかも、3年から5年おきに人事異動があり、ずっと同じ部署にいるわけではない。

ある先輩の言葉を今でも覚えています。
「仕事は好き嫌いでやるものではない。共通のミッションを協働で解決するもの。」
これは人口が147万人を超える政令指定都市の一般事務職に求められている役割でした。
行政はあくまでトップダウンで動く執行機関。何かを作り上げるのは立法府である地方議会。例外はあれど、組織の大きな傾向としてはそうなっている。

良い悪いの話ではなく、ただそうなっている。そうやって作られてる。
ただそれだけの話。

大きな理想だけを掲げ、そんな当たり前のことに気づかなかった、僕の落ち度でした。

答えが出ていないフリを続けている。

 それからは心をぼかす毎日が続きました。京町家でシェアハウスをしたり、自分のNPO法人の運営をしたり、先輩の誘いで社会事業家になるための起業塾に入ったり。
しかし、本質的な問題が解決されないまま日々を過ごしていました。そんな中、自分より早く公務員を辞めて夢を追いかけている大学の友人と会うことがあり、こんなことを言われました。

「答えが出ていないフリを続けているね。自分の理想と違ったなら行動を変えるだけじゃない?今の待遇を捨てるのが怖い?」

 確かにそうだと思いました。辞めるという答えが出ていた中で、安定を手放すのが怖いだけだったんだなと。
 道を変えるのは今しかないと思い転職活動をはじめました。

そして、FoundingBaseへ。

実はその友人に、「面白そうな企業がある」と言われ、2019年からFoundingBaseのFacebookをフォローしてました。
入れるかどうかは分からないけどまず行動しようと思いました。
親が教員であったことや、NPO法人の活動で人の変化を促すコンテンツを作ったこともあり、教育に関わりたいと思い教育事業への採用に応募しました。
1月から着任して楽しいことばかりではなく、大変なこともありました。
けれど、自分が納得できる選択肢を選べていると思っています。

国見町では、公営塾ハルの運営に携わっています。教育業界に入ってみて
いろいろ考えるきっかけを頂きました。
私教育ではなく、公営塾という公教育としての側面がある以上、そこで作られる学びは個人の成功体験や経験則だけに頼るのではなく、学習指導要領をはじめとしたこれまで教育の系譜にも留意した、バランスの取れたものである必要があるのかなと思っています。
自分自身まだまだ発展途上ですが、そんな学びをハルの仲間と提供したいです!!

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