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松尾 保尭(Matsuo Yasuaki)

教育事業部 / 美祢市
1995年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。神奈川大学人間科学部卒。
大学時代は体育会アメリカンフットボール部に所属し、4年時は副将としてチームを牽引。
卒業後は、1年間で世界1周約40カ国渡航の海外放浪、公立高校で保健体育科の非常勤講師などを経験。その後、NPO法人のスタッフとして4年弱、不登校支援や貧困家庭の子ども向け支援に従事した。
たくさんの「体験機会の格差」を目の当たりにし、地域における体験機会の可能性を信じ、FoundingBaseへジョイン。2024年7月より山口県美祢市で公設塾minetoのスタッフとして活動中。


成長や全体の利益とは?スポーツばかりの子ども時代

3歳から地域にあるプールに通い始め、8歳では選手コースに入り、競泳を。
週6日は練習がある日々を8歳〜中学3年生の夏まで過ごしていました。競泳は本当にしんどいです(もちろん好きでやっていましたが)。
基本的には速くなりたい一心で、しんどい練習に耐え、続けていました。なんとか中3の夏には、念願だった全中(中学生の全国大会)に出場。30位とかでしたかね。

中3の夏で競泳を一度離れ、燃え尽きに近い状態になっていたかと振り返ります。中3秋にもなって、就職する気や根性もないくせに「高校って行かないとダメなんですか」なんて担任の先生へ言っていた私は、面倒臭い人間だなと思います。
特にこれといった理由もなく家から近くはない、よく知らなかった県立高校へ進学しました。
そのまま競泳は辞めることにしましたが、高校でも何かスポーツの部活動をやろうと思っていました。入った高校に、たまたま県内に20校もないであろうアメフト部があり、「これなら高校から始めるに丁度いい競技」だと思い、入部。

個人競技でプールで行う競泳、一方アメフトはチーム競技で屋外の土グラウンドで雨でも練習をする、真逆なスポーツ・環境でした。
フィジカルの重要性が前提となる競技で、なかなかデカくならない・強くならない、練習と筋トレと食事とおにぎりの毎日でした。その結果か、ありがたいことにスポーツ推薦で進学させていただけました。
高校では主将を、大学でもセクションリーダーやユニット全体のリーダー、部全体の副将を務めました。勝ちたい想いはもちろんですが、どちらかというと、負けたときに後悔が限りなく少なくなるだけの取り組みをしたい、と考えていました。
アメフトをやっていて「自己犠牲のスポーツ」と教え込まれてきたことと、高校・大学共にチームをまとめる役回りであったこともあり、誰か1人だけが頑張ってもほぼ無意味なことを感じ、周りの仲間にどうきっかけを与えていくか組織として何が健全であったり勝利や成長につながるのかを、よく考えている日々でした。(捉え方ですが、今思えば「他者貢献のスポーツ」かと思います!)

進路選択のモヤモヤ。どんな大人になりたいのか

大学3年後半〜周りの仲間たちと同じようにリクルートスーツを着て就活を。世の中にはこんなにも色んな会社や仕事があることを初めて知ったような感覚もあり、それはそれで楽しく思っていました。しかし、これといって前のめりになれるような選択はないような気がしていました。
それも、ぼんやりと将来は学校教員になりたいという想いがあったからかもしれません。ただ、大学生までスポーツ以外の経験がほとんど何もない自分に対し、大卒後すぐに教職に就くことが適切なのか見えず、「このままでいいのか」「何かを伝えられるような人間なのか」と、鉄板の問いに直面していました。
結局、大卒後の進路として選んだのは、企業就職や教職の道でもなく、まさかの海外放浪。
海外に初めて行ったのは、大学卒業直前に行った仲間との卒業旅行でしたし、元々は海外への興味・関心はほとんどない人間でした。なので、周りには驚かれたかと思います。
経験不足をコンプレックスに感じていたため「面白い人や経験」「変な人、強烈な体験」に対するあこがれがありました。さらに、高校時代の部活の顧問やコーチから、「教員になりたいなら色んな経験が必ず活きる。色んな世界のリアルを見ることは人間としての財産になる。そんな大人の話を子どもたちはきっと聴きたくなる」とそそのかされ、決意しました。
いわゆる新卒カードを失うことを、当時は不思議と恐れていませんでした。選んだ道が正解かどうかではなく、選んだ道を正解にする、そんな心持ちだったのかと振り返ります。または、同質性が求められているように感じていた場からはみ出せたことに対しての安心感みたいなものもあったのかと思います。

豊かさとは?海外放浪と子ども支援

フリーターとして旅の資金を集めてから、海外放浪の旅へ。
「○○に行きたい 」というよりは、「いろんな文化や人に触れたい」といった目的の旅でした。初めは半年ほどのつもりが、結果的には1年ほど旅をしていました。
旅を経て、各地で現地の方や旅人たちに多く出会ったことで、色んな生き方があることを改めて感じました。そのおかげで、「ちがい」を認めやすくなったり(良い意味で)面白がることができるようになったりする自身の変化がありました。また、自分自身のこれまでの環境の贅沢さを感じました。
さらには、物質的または経済的な豊かさと、心理的な豊かさは、必ずしも相関しないのではないかということも、実際に色んな地域を訪れてみて感じたものでした。
世界の広さを知ったからこそ、私はより広い世界を知りに行くことよりも、目の前の世界に真摯に向き合うことを大切にしたいと思うようになりました。

あとは、どんな場所に行っても子どもたちがかわいいってことだけは共通していました。やはり子どもと関わる仕事をしたいと思い、帰国後すぐに母校から声をかけてもらえたので、講師をやらせてもらいました。任期の間、高校の体育における「面白い授業」とは何かを試行錯誤をしながらやっていました。

海外放浪で見たもの・感じたことや、少しの期間日本の学校現場にも入らせてもらって感じたことから、自分がやりたいことのど真ん中はどのようなものかと考え、当時の答えは「(子どもの)しんどいことやモヤモヤ・困難に対し背中を支えたり、ポジティブなエネルギーを出していくサポートをすること」でした。
それを体現すべく、NPO法人森の仔じゆうがっこうに入職。青少年の健全育成を支援する団体でした。主に、不登校児童生徒とその家族の支援、貧困世帯の子ども支援を行っていました。
「本当に困っている人を本気で助ける」「根本の課題と向き合う支援」このような支援の現場で、出来ることに向き合い続けました。何かあった時にいつでも頼れる場・人であること、安心安全な場を作り少しずつでも元気になっていってもらうこと、そして社会の中でたくましく生活していけるよう挑戦のための体験機会を作っていく、こんなことをやっていました。
その中で、「体験機会」というものが豊かさに影響を与えるように感じてきました。経済的な要因による機会の格差を目の当たりにし、体験の少なさや、それによる選択肢が限定的になることなどに、課題感を強く感じました。

地域での教育、まちの共創

色んな思いを持ちながら働いていた支援の仕事ですが、子どもたちの挑戦を後押ししている自身が、挑戦的な生き方をできているのかを考えるようになり、結果的に新たなステージに行こうと考えました。
基本的に計画性が低く行き当たりばったりな人生を歩む私は、次の仕事が決まっていない状態で退職しました。(ギャップイヤーやキャリアブレイクなんて言葉が聞かれるようになってきましたが、その類のものをたくさん経験しています。)
求職活動をしていた時期に、人づてに教えてもらい、複数企業が集まり「こどもごころ×イノベーション」について語り考えるイベントに参加。そこでの問いとして、「面白いまち(場所)があるのか? 人が場所(まち)を面白がるのか?」みたいな話があったかと記憶しています。主体を誰に置くのかみたいな話が1つと、場所自体の魅力ってどこまで確証あるものなのかみたいな話なのかと、解釈しました(「〇〇は、魅力がない」みたいな捉え方が嫌いということです)。良くも悪くも、世間一般から見たときに強烈な個性を持つ場所(まち)しか生き残れない社会って本当に豊かなのかなと。

まちを面白がる人間でいたいと、影響を受けた私は、前職の中で感じた「体験機会の格差」というものが、経済的な要因からくるものもあれば、地域性の要因もあるのではないかと考え、「都市部より地域の方が豊かな体験機会がある。ただし、そこに適切な大人がいれば。」との仮説をもつようになりました。
地域の中で子どもに関わる仕事を行うことを考えるようになり、結果的にFoundingBaseへジョインしました。
また、旅を除いて基本的に神奈川県で生活し続けた私は、初めて居住地が大きく変わることになりました。1個人としての私は、「ゆかりある地域・まちが増えることは豊かさにつながる」と考えているため、地域に入り込んで生活をし、教育に関わり、まちづくりを行っていく仕事があるなんて、おいしい話だと感じています!

私個人としては、山口県美祢市というまちを面白がり、仕事として、地域の皆さんと共に子どもたちの挑戦を後押しし多くのエネルギーや挑戦が溢れるまちを作っていきたいと思っています!

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