増田 紗斗(Masuda Sato)
教育事業部 / 安平町
1998年5月生まれ。神奈川県横浜市出身。幼少期を宮城県仙台市で過ごした後、横浜市で生活をする。成城大学へ進学し、大学院まで進む。大学時代は、学内のアクティブラーニングを活性化させるための「ピアサポーター」の代表を務めた。教会の国際青年会と多文化共生の観点で研究を開始。研究の深化のため大学院へ進み、「より善く他者と生きる」をテーマとした。院生TAとして、公立高校の探究学習にも携わった。2023年に新卒としてFoundingBaseにジョインし、安平町拠点の教育事業に関わっている。
どんな人も信頼できる平和な世界
とにかく周囲の人に恵まれた幼少期から小学生だったと思います。幼稚園、小学校の先生、友達の保護者に「さとちゃんはお姉さんだね」「さとちゃんがいると安心するわ」と言われてきました。自分の存在を認めてくれる大人たちと、個性的で面白い友人に囲まれて、のびのびと育ちました。特に、宮城県仙台市で過ごした8年間は、人にも環境にも恵まれていました。
そんな平和な世界で育った私は、人を疑うことを知らない、仲良くなれない人なんていないと思っていました。本当に年齢や特徴に関係なく、みんなと仲良しでした。中でも、私はどこまでも素直に人が言うことを信じていました。そんな私に冗談を言って、茶化す人もいましたが、その人とも他で豊かにコミュニケーションをしていたので、悪意がないことはわかっていました。
今までの人間関係観が崩れる
平和な世界で育った私は、出身地である神奈川県横浜市に小5前に戻ることになりました。そこで、私の平和な人間関係観が崩れていったのです。横浜での小学校生活は、特に大きなトラブルもなく過ごしていました。しかし、ゲーム機で遊ぶ、お買い物をするという遊び方に慣れなかったり、誰とでも男女関係なくコミュニケーションをするということが当たり前ではない環境に驚いたりしていました。
中学校では、吹奏楽部に所属し、勉強をほどほどに頑張り、クラスメイトとも仲良くできるだろうと思っていました。そう、人間関係を上手く築けていると思っていたのです。しかし、中学1年生の冬頃、私の分け隔てない振る舞い方と相性が悪かった人たちから、無視をされるようになりました。私の発言が曲解した解釈で広められ、人と話すことが怖くなりました。それから、話をできる友人もできましたが、自分を100%開示することはなくなりました。誰とでも仲良く、誰とでも信頼関係が築けるという幼少期の経験が裏切らたと思う期間でした。
高校受験に失敗し、併願の私立に入学しました。高校は、進学校であると謳っているところで、日々小テストや試験に追われていました。また、点数と順位が全て掲示される制度だったので、成績という物差しで評価される生活を送っていました。私は、文系女子の中では上位にいる、いわゆる「優等生」「真面目」な人と周囲から見られ、扱われていました。順位が下がった時、周りから「珍しいじゃん」「やっと勝てた」と言われるのが嫌で、テストで点数が取れるように勉強することで必死でした。
そんな生活を続けて迎えた大学受験。入試対策の勉強、各大学の傾向把握など、「一体私の人生に役立つの?」「私って点数でしか評価されないの?」と受験勉強の意義を疑うようになりました。私は、何を考えているのか、どのように考えているのか、考えたことをどのように活かしていきたいのか、という観点で評価されたいと強く思うようになりました。
吹っ切れてやる!
受験のあり方を疑ったまま入試に臨み、結果は志望していなかった「よくわからない大学」の合格しか取れませんでした。浪人も認められず、渋々入学することになりました。
ここで、吹っ切れたんです。大学生活をすべて自分の「学び」のために使って、「化てやる!」と思いました。この思い切りのおかげで、今の私の考え方の土台が形成されました。
大学時代、転機だと思うことが3つあります。一つ目は、初めてのアルバイトの面接でのこと。飲食店のアルバイトは性に合わないのでは?と思いつつ、アルバイトという機会を使って挑戦してみようと思いました。面接を受けたのは、フレンチレストランでした。そのレストランのマネージャーが面接を担当していました。面接中、マネージャーは、私の性格を見抜き、飲食店のサービスは向いてなさそうだと思ったそうです。しかし、「これで、この先会うかわからないけど、せっかくのご縁だから」と言って、私に助言をしてくれました。その後、バイトでもお世話になることになりました。「せっかくのご縁だから」。これは、この日以降、私が人と接する上で、大切にする要素になりました。
二つ目は、ピアサポーターとしての活動です。やったことがないことをすると意気込んだ大学1年生。ピッタリのお知らせをてにしました。私が入学した2017年、大学では学生同士での学びを深めるため、アクティブラーニング推進のために、ピアサポーター1期生を募集していました。ピアサポーターとしての活動を通して、たくさんのことを学びました。ファシリテーションやコーチングのスキル、一から行う組織づくり、ニーズに合った活動計画など。他学部の、学年も違うメンバーと教職員と協働して活動を行うのは困難なことも多くありました。しかし、その困難をともに乗り越える仲間がいる喜びも知りました。仲間との対話を通して、考え方やアイディアを共有し、成長を実感できました。3年生の時には、代表を務め、全体の管理とバランス調整のやりがいと難しさを知りました。
三つ目は、文化人類学という学問との出会いです。もともと、宗教と人が集まるということについて関心があった私は、歴史学の観点から、特定の宗教を信じている人たちについて研究しようと考えていました。しかし、歴史学では、今生きている人を研究することはできない、「人間」を感じられないというもどかしさを抱えていました。文化人類学が、このモヤモヤを解消してくれました。フィールドワークが重要な学問のため、3年生からフィールドを選んで、参与観察を開始しました。私がフィールドに選んだのは、聖イグナチオ教会という都内の大きなカトリック教会です。ここは6つの言語でミサを行っており、「いろんな人に出会えそう!」という直感で行くことを決めました。訪問初日、外に立っている私に声をかけてくれたのが、国際青年会のメンバーでした。そのメンバーが言うままについていき、国際青年会と出会い、彼らを対象に研究を行うことに決めました。
「人とより善く生きる」には?
学部時代のフィールドワークを通して、国際青年会のメンバーが日本で「より善く」生活するためにしている工夫、互いの関係性の築き方が、多様な他者と共に生きていくということを考える上で、ロールモデルになるのではないかと考えました。彼らをロールモデルとして考えていくためには、大学院でフィールドワークと研究を深めることが必要だと思い、進学しました。専門知識を深めつつ、国際青年会との関係を密に築いていく中で、一つの課題に気がつきました。それは、研究という方法が果たして、私が考えていることを実社会に活かすことにつながるのかというものです。「人とより善く生きる」ということを考えた結果が、論文として発表され、アカデミア界に共有されるだけで良いのだろうか。私は、生活している人々と直接関わり、「人とより善く生きる」を実践する中で、社会に伝えたいのではないか。このことに気がついたのが、FoundingBaseを見つけるアンテナになったのだと思います。
高校時代、成績だけで自分が評価されている、認識されているような状況から、考え方や学びの活かし方に目を向けて欲しいと想った私と「人とより善く生きる」ということを考え始めた私が、合体した出来事があります。それは、公立高校の探究学習プログラムにTAとして携わるようになったことです。探究学習を通して、生徒が自分の中から出る純粋な疑問に向き合い、「学び」を得る、深めるという体験をし、普段の学校生活では知ることのできなかった友人の考えを知る。これが視野を広げ、多様な他者を知る、受け入れる素地になっているのではないかと思いました。「人とより善く生きる」を考えるという段階から実践に移すためのアプローチとして、学校の「勉強」ではない方法で教育に関わりたいと考えるようになりました。
FoundingBaseとの出会い・これから
私にとってFoundingBase は、中高時代に直面した人間関係の難しさ、「せっかくのご縁だから」、ピアサポーターの経験、フィールドワークを経て考えた「人とより善く生きる」という4要素を実社会で考え、実践していくにはピッタリな会社でした。フィールドワーカーとして「現場」に身を置きつつ、教育を通して学びや新たな世界を共有することができる。これは、まさに私が求めていた場であり、仲間だと思いました。
まずは、実社会を知りたい。国際青年会でのフィールドワークや探究学習のTAを通して考えてきたことを実社会の場で考え、実践していきたい。その上で、実社会にいながら、一歩引いた(鳥瞰)立場で考え、「人とより善く生きる」実践を広げていく方法を考えたい。そして、出会う人たちと新たな気づき、学びを共有したい。これらの「したい」を叶えるためにできることをコツコツと実践していく生活を目指しています。